「東京物語」と小津安二郎〜なぜ世界はベスト1に選んだのか〜平凡社2013年12月

派手さはないが誠実で良質な作品を出している個人的には好きな平凡社新書。その新刊のおススメ。



以前、ある英国の映画雑誌「サイト&サウンド」誌が行った「最も重要な1本」の投票において、小津安二郎東京物語」(1953年)が1位に選ばれた。すでに名作として名高い本作ではあるが数々の名作の中で1位、しかも現役映画監督から選ばれた理由はなにか。


小津映画が語られるとき、それは主にローアングルでの撮影技法だったり、日本的家族を描く「ホームドラマ」の原型といったことに関することが多い。だが実際「小津映画の何が面白いのか?」と問われれた時、「日本的家族をほのぼの描いたから」という答えでは不十分だし、それはむしろ「男はつらいよ」的な映画なのかもしれない。では何か?という問いに対して本書は丁寧に答えている。


それは普遍性を描いているからだ、というのが大きな結論である。普遍性とは世界の誰もが感じること。喜びや悲しみそして時間。そのように書くと、「いや、映画ってすべてそうなんじゃないのか」という思いもあるだろう。ただしそれを小津は生地に例えるなら「無地」で描いているからこそ、人間が心の奥で共感するものを浮かび上がらせると筆者は言っている。抑揚のないセリフや場面の展開の一定のリズムは「型」であり、「型」を徹底するからこそそこからはみ出たものがより強く感じられるというのだ。そしてこの映画を小津映画という知識・経験にとらわれず、また傑作という神棚に祀り上げること無くこの作品とみることが難しいだろうと筆者は言う。そこでもういちど出会いなおしてみたい、という筆者に共感しながら本書を読み終えた。「東京物語」が自分の年齢や立場によって印象が徐々にかわっていくのはそういうことかと勝手に納得しながら、自分もそのように既に何度かは見ている「東京物語」に出会いなおしてみたい、と感じた。コンパクトながら深く共感させられるおすすめの一冊。

〜以下は印象に残った部分を抜粋〜
・・・自分の人生を振り返ったとき、自分がひょっとしたら人生を無駄に浪費してしまったのではないかという考えに立ち至ったとき、人はどのようにしておのれの誇りを守ろうとするだろうか〜中略〜そっと自分にもわからないように彼は自分に嘘をつく〜心の片隅で、自分が自分を騙し、目をそらしていることにうっすらと気づきながら。誰かに似ていないだろうか?原節子演じる紀子である・・・


・・・「東京物語」では子供たちの叔父、叔母、両親、祖父母、その友人たちがそのまま彼らのライフステージが推移していく未来予想図のように配置されている〜すべては順番なのだ〜小津が家族を見つめる視線とは、人がこの世に生きる時間と順番を一家族のなかに異時同図的に見つめ、それを受け入れようとする視線だったのではないだろうか・・・


・・・通常、食卓を囲む飲食シーンは家族の結びつき、だんらんを表現する場として選ばれ、多用されるオケージョンだ〜しかし「東京物語」のこの家族の会食シーンではそんなことは起こらない。結びつきは強まるどころか、むしろ解体していく〜人々はそれぞれが勝手なことを言い、かみ合うこと無く、かといってぶつかりあうこともなく、拡散し、個人の都合を優先させ、個の生活へ帰っていく・・・


・・・「東京物語」の東京には観光的視点は、全くと言っていいほどない。〜都市の固有性は消え、抽象化された都市生活の感触だけが残る・・・


・・・あらためて振り返ってみれば、通り過ぎていくもののイメージに覆われた映画である〜時とともに通り過ぎていったのは人間に他ならない。一時滞在者。「東京物語」では、そんな視点で人間がみつめられていることに気づく。生まれ、生き、老い、やがては退場していく。人はこの世にひととき滞在し、通過していく一時滞在者にすぎない。一時滞在を順番に努めていく人々。順番を受け入れていく人々。人を見つめるそんな視点が周吉と紀子の懐中時計をめぐる会話に凝縮されている。・・・

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