「逆説」の日本史、とは・・・?

私は歴史が好きだ。とくに中世が好きで室町中期からメジャーな戦国時代までが主で、小学生時代「漫画シリーズ」はよく読んだし、授業の「絵本作成」では室町6代将軍足利義教の強権政治を題材に扱っている。また中学以降は「中公文庫」の歴史シリーズ(最近復刊されている)がバイブルになっている。
それはともかく・・・・歴史好きには、大雑把にいえば2通りあると思う。①は出来ごとそのものが好きなパターン、②は「今を考える」ために知るパターン。勿論両方の場合もある。、特に戦国武将などは前者に当てはまる。いわゆる「マニア」もこの部類か。逆に後者はこれは歴史に限らずすべてがそうだし、またすべてが歴史のことともいえる。勿論私は両方好きだし、大人になってから後者の見方が増えてきた、とも思う。








そんなどうでもいい考えが浮かんだのは網野善彦石井進「米・百姓・天皇〜日本史の虚像のゆくえ〜」を読んでみてのこと。





網野善彦歴史学者だが、歴史というジャンルをこえた存在(だと思う)。まあ、ネットでの説明のが正確だと思うので・・・。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B6%B2%E9%87%8E%E5%96%84%E5%BD%A6





この人がよく言っているのは例えば江戸時代の「士農工商」という考えは明治政府のつくった「虚像」である、ということ。というのはそもそも人々の仕事には海とか山とか、「農業」といってもいろんな仕事があるのにすべて「稲作農民」かのようなイメージを持たせているし、戸籍上も扱っているということ。まあ、この考え自体は前から知っていたが、他にも面白かったのは「皆さん日本列島に住んでいた人を『日本人』っていうけど違うのではないか。そうではなく日本の国制に組み込まれた人が『日本人』なのではないか」というものなど。






で、なぜその辺が面白かったのかといえばこの本が同じ歴史学者石井進氏との対談で進められているせいか、網野氏が「なぜ」そこをこだわるかを感じられた気がしたから。石井氏が「まあ、広義の意味でも農業、でもいいんじゃないですかね」的なことをいっても「それはだめなんです」。そこにあるこだわりとはなんなんだろう、と。



それに対する答えはうまく言えないがダメもとでいうならば「国の制度ができて、それに当てはまらない部分は消されていく、また差別される、ということへの思い」ではないだろうか。そこで今で例えるならこんな例が、と言えればいいのだがそこは不勉強のためやめとくが、なんとなくそんな気がする。東北や北海道(蝦夷アイヌ)、沖縄(琉球)の歴史は勿論だが、我々が当たり前に習ってきた「弥生時代から稲作文化で・・・」も、事実の積み上げの部分だけでなく国の制度によるあとからの解釈の部分も多いこともしっかり考える必要もある。それが「逆説の日本史」というものだろう。「信長を殺したのはホントは誰か」なんてどうでもいいのだ。それは「湯けむり殺人事件シリーズ」的なものにまかせておけばいい。




とはいえ・・・先日「上杉景虎」という新刊がでてた。これぞ戦国マニア用でその前書きには「この本をお手に取る読者にはおわかりだと思うが、これは『上杉謙信景虎)』を扱ったものではなくその後継者争い『御館の乱』で上杉景勝に敗れた北条氏出身の『上杉景虎』に関する・・・」。「確かに知ってるけど、こんなん扱ってもそれほど歴史的意義なんかないだろう!」と思いつつ、ちょっと欲しくなった。これは老後に読むこととしよう(笑)。