山形の企画展に注目せよ!〜高橋由一編〜

山形美術館〜近代洋画の開拓者 高橋由一 〜7月20日(金)−8月26日(日)
http://www.yamagata-art-museum.or.jp/ja/kikaku/20120624-takahashiyuichi.html


正直いって日本の近代洋画ってほとんど知識がなかったし(今でも)、それほど興味もなかったのだが、これには見入った。簡単に「開拓者」というが、それは明治初期に各分野で行われた政府委任の普及ではなく、自ら切り開いたものだ。つまり、洋画に興味があったが最初からそんな仕事があるはずもなく、まずは幕府の画の関係の仕事につき(その経験は過去の技術を理解する上で重要だったらしい)、自ら洋画を教えてくれそうな人を横浜の居留地探して頼み込む、という流れであった。その流れを簡単に抜粋すると以下の通り。



〜ところが嘉永年間のある時、西洋製の石版画に接し、日頃目にする日本や中国の絵とは全く異なる迫真的な描写に強い衝撃を受ける。以後、洋画の研究を決意し、生涯その道に進むことになる。文久2年(1862年)に蕃書調所の画学局に入局し、川上冬崖に師事した。本格的に油彩を学ぶことができたのは、慶応2年(1866年)、当時横浜に住んでいたイギリス人ワーグマンに師事したときで翌年にはパリ万国博覧会へ出展している。〜Wikipediaより〜




また、なぜ洋画に衝撃を受けたかといえばその真に迫る写実表現だったという。ただ、この時代にはもうひとつの表現技術が日本に入り始めていた。それは「写真」である。普通なら初めて写真をみたら、「これは現実を『そのまま』写す凄いものだ。もう『画』なんていらないじゃないか」と思ってもおかしくない。そんな時代に「いや、『写真』では表現できないもが『洋画』こそできる!」と確信し邁進するのである。なので彼は洋画を今で言う「アート的な」ものではなく完全に「写実技術の極み」と捉えていたのではないかと勝手に思っている(ちなみに西洋の『写実主義』云々のことはよくわかりません・・・)。


以下HPより。

*「山形県庁前」。これを含め一度写真をもとに描かれたものも結構ある。行き交う人々や建物を細部に質感を加えたこの作品では、街の空気がより感じられるようでもある。ちなみにこの企画展では代表作「鮭」などの静物だけでなく風景画も多い。


*「海老名ふさ像」。これとは別に「花魁」という作品があるが、それまで象徴的に描かれることが主だった花魁が、あまりの生々しさにモデルがショックを受けた、という話も残っている。





ところでこれで世の中が「『洋画』って凄いな!どんどん広めようぜ!」となったわけではない。明治初期からの国粋主義的風潮で日本画が推奨され思うようにいかない。そこで高橋は今風に言えば山形知事兼開発長官の三島通康に「せっかくだから開発の記録描いときましょうよ、私やりますんで」みたいな感じで売り込み(?)、洋画を描き続ける。



いつの時代もどんな分野でもパイオニアというものは凄いものだ。文字通り「革新」だが「確信」も必要だ。それは「やろう」ということではなく「やらなくていいこと」が明快な気がするからだ、なんて凡人の私は思ってしまうのである・・・。



以上雑感。細かい史実は私の雑なイメージも混ざってるので、ちゃんと知りたい方は直接観に行かれることを是非おすすめします(次は京都国立美術館でやるそう)。